笑いの品格 | おわらいバカ

笑いの品格

オゥ!フゥジヤァマ~


おひさしぶりにもほどがありますよね、どうも管理人という名の愚か者です。

なかなか更新できなくて涙を流しながら今日まで生きてきました。


タイトルを見ればすぐにわかると思うんですけど、

2006年のベストセラー「国家の品格」を読んでみました。

「国家よりもまずお前の品格を何とかしてくれよセニョリータ」的な

ラヴレターが全国どころか世界中から多数寄せられそうなんですけど、

そんなことに屈することなく頑張りたいと思います。


生まれながらにして読書という知的な行動に取り掛かることを拒否し

笑いが豊富に溢れているテレビの世界に逃げ込む習性があったんですが、

最近になってようやく読書のおもしろさに開眼しはじめました。

今でこそ、このブログも書かせていただいてますけど

文章を書くのも極めて不得手でした。


学校で「読書感想文を書いてこい!」なんて言われようものなら

「私は~と思う。」 を 「私は~と思うことこの上ない。」みたいに

1マスでも多く原稿用紙が埋まるように語尾を替えることに躍起でしたし、

それ以前に本を読まずに感想文書いてましたからね。

ここまで来るとヴァカですよね。

完全に読書感想文の本質が失われてる。

言わば「無読書妄想文」。

たぶん本のストーリーに出てこないこと書いてた。


とにかく今になって読書のおもしろさとか必要性に気づいたんですよ。

「国家の品格」の著者である藤原正彦さんも人間には

情緒力(物事に対して正しい感慨を覚えることができる力)が

必要不可欠でそれを養うには読書が最善の方法だと言ってますからね。

こりゃもう必要だわ、読書。 ボクに情緒力は皆無ですからね。

野に咲く花の美しさに感動するなんてことは一度もないですからね。

美しさより食べられるかどうかで判断しますからね。

もうホントにボクはダメなやつだ。


今まで読書があまり好きになれなかったのは、

「読書は受け売りに過ぎない」という身勝手な先入観が原因だったみたいです。

しっかし、いざ読書すると心地よいほどにインスピレーションが刺激されるね。


って、もうボクの読書に対する愛情はどうでもいいですよね。

全然タイトルに関係ないじゃないか。 プンプン。

とさとう珠緒風に言っておけば許されるかな。


ということで、

ボクに対する怒りの握りこぶしはひとまず下ろしてもらって、

本論にいきたいと思います。


「国家にも品格があるようにお笑いにも品格がある」

と前々から思っていたんですが、

今回、国家の品格を読んでその考えがより強固なものになりましたの。


それはどうしてかというと、

「枯れ枝に 烏の止まりたるや 秋の暮れ」

という俳句をあるドイツ人大学生に紹介してあげたところ、

「それで続きは?」と聞き返されたというエピソードが文中にあったからです。

日本人なら「それで?」と聞き返す人は一人もいない。

日本人なら誰しもその俳句を聞いた途端、

「沈む夕日を背にして烏がポツンと枯れ枝に止まっている」

という光景をすぐに思い浮かべますよね。


日本以外の多くの国は

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

という芭蕉の俳句を聞いて一匹じゃなくて何匹もドバドバッと

蛙が飛び込む光景を思い浮かべるらしいのです。


そこに日本人特有の感性のすばらしさがあると著者は言っています。


それを知ってボクの考え方は間違っていないと確信しました。

日本の笑いはこの世界屈指のイメージ力に拠るものでなければならないと。

そうすることで美しいお笑いの世界が実現すると。


例えば芸人さんが何らかの言葉を放ち、

その言葉を受け取った側が状況をイメージしておもしろさを感じる。

それが日本特有の笑いの在り方だと。あるべき日本の笑いだと。

これが松本人志が根付かせようとした笑いの姿だと。


外国には漫才形式のお笑いはないと聞いたことがあるのですが、

こういう理由があったからなんだと分かりました。

やはり日本は世界に名だたる品格あるお笑い国家だったのです。

かと言って、他国の笑いの在り方が間違いということではないですよ。


世界の中で日本はイメージ力が非常に高いという現実が

漫才という笑いの形式を生み、独自のエンタテインメントとして発達した。

その本来持つ強みを生かした文化・歴史がすばらしいというわけです。


この事実を考えた上で、現在のお笑いをみなさんはどう思いますか?

ボクはどうしても納得いきません。

「空前のお笑いブーム」なんて言われてますが、

どうも間違ったレールに乗っているとしか思えないのです。

つまり、日本が誇るイメージ力に拠った笑いがかなり少ないと思うのです。

「インパクトさえあればおもしろい」という考えが主体の

「迎合型お笑い」が台頭してきてしまっているのです。

「迎合型」というのはもちろん、

芸人さんが自分の世界観を曲げてお笑いを見る側が

好みそうなカタチの笑いを提供するということです。

要するに、お笑いを見る側の顔色を伺う芸人さんが多くなっているのです。

これは極めて時代錯誤です。 非常にまずい事態です。

日本独自の潜在的なお笑い文化の存続・発展が危ぶまれます。

この事態にみなさん気づいてますか?

ボクの言うことは間違ってますか?

それともボクは調子に乗りすぎですか?


















最後の質問は間違いなくイエス