おわらいバカ
Amebaでブログを始めよう!
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>

はんどぺーぱー

うぅうぅぅぅううぅぅ・・・  これ、原作。


久々で気恥ずかしさを隠せない管理人風の男です。

世間は槇原敬之さんと松本零士さんの盗作騒動で賑わっていると

風の便りっていうかテレビで聞きましたので

その騒動に紛れていっそのことこんなしょうもないブログは

閉鎖してしまおうかと画策中の管理人風の男です。


まぁそんなしょうもない画策はゴミ箱へポイしまして、

先日、映画の「DEATH NOTE」と「手紙」を観に行ったわけなんですよ。

デスノートはデスノートで大どんでん返しみたいな感じだとか

「こういう展開になるのかよ」とかそれはそれは楽しませてもらったんですけど、

その翌週に観に行った「手紙」には衝撃を受けましてね、

今までに見た数少ない映画の中でダントツの首位を根こそぎ奪って行きました。

ガンコな汚れもすっきり落ちそうなくらい根こそぎでしたからね。

何枚か汚れの落ちない洗濯物を持っていくべきだったと後悔した位でしてね。

ドメストの主成分はコレなんだって思いました。

というのも、残虐冷酷で名を馳せたボクが鼻水ズルズル涙ザァザァで。

もう本当にすばらしい作品でしたわ。

もうね、あの良さを「感動」の二文字で済ませてしまうのは

愚かだとしか思えないくらいの良さなのですよ。

いや、絶対にあの映画に「感動」という言葉はふさわしくない。

それくらい深い。

とにかく、まだ観てない人はぜひ観てください。


話はあんまり具体的には書かないですが、簡単に書くと

「犯罪者の兄を持った弟がお笑い芸人で夢を追いかけて頑張るけど・・・」

っていう内容なんですよ。


それで改めて再認識したことがあるんですよ。

映画の内容とは直接的にはまったく関係ないですが、

「笑い」って人間が生きていく上でかなり重要な役割を果たしていて

なかには自分の悲しさとか寂しさを隠蔽する目的で「笑い」を利用し

創造することで、生きることを可能にしている人もいるということですよ。

こういう人は潜在的にかなりの数でいるはずなんですよ。

そういう悲しさとか寂しさを完全に隠蔽できていればいいんですけど、

それが笑いの裏に垣間見えてしまったときの切なさというか想いというのは

直接感じ取るより何十倍も大きくなって伝わってくるんですよね。

そんな認識があったからなのかどうなのか、

スクリーンに吸い込まれるように見入ってしまいましたよ。


もともと、この「手紙」は東野圭吾さんの小説が映画化されたものなのですが、

やはり頭で考えたことを言葉で紡ぐのは非常に難しいものなのだと感じました。

学生時代は「数学とか国語とか勉強して何の役に立つんだ」とか

ブゥブゥ文句言いながら勉強してましたけど、

今になってあれほど有意義な勉強はないと気づかされました。


「数学は最初から最後まで論理を途切れないように思考を巡らせる訓練」

「国語は主張を理解して行間から感情をも読み取り、美しい表現を識る訓練」

ですからね。

ホントに「ゆとり教育世代」じゃなくてよかったです、ハイ。

近頃は「英語」に関してもっとコミュニケーション能力を高めるために

文法よりも会話を重視すべきだという風潮が出てきているみたいですが、

同じ理由でやっぱり文法重視の従来の英語教育がいいとボクは思います。


「伝わる英語」より「伝える英語」を話すためには

やっぱり文法が必要なわけですから。

文法はいわば言葉の取扱説明書なわけです。

もちろんそれは英語に限らず日本語もそれ以外の言語も。

何が言いたいのか意味不明でグダグダですが、まぁそういうことです。



















調子に乗ってる管理人は人生のふりだしに戻れ

イメージダウン?

ぎゅうすきなべぇー   480円。


前回の記事から一ヵ月半も経っちまったぜ、恥ずかしながら管理人です。

「短い記事なら毎日続くはずだ」なんて愚かな理想論を吹聴していたのに

その理論を実行できずにこんなザマです。


ところでね、先日吉野家に行ったんですけどね、

ボクの向かいの席に、それはもう恐ろしい風貌の大男が座ったんですよ。

彼だったら間違いなく熊の1頭や2頭は軽く殺めてると思う。

っていうか、彼自身がもはや熊なんですよ。

そんな状況で西部劇みたいに

「オマエ、誰の前に座ってると思ってるんだ? 表に出ろ。」

とか言ってその大男をコテンパンにのしてやれたら

どんなにボクの株は上がることだろうと思ったのですが、

ハートだけじゃなく全身がガラスでできてるようなボクの目の前に

そんな大男が座っちゃったら告白前の女の子みたいに

うつむきながらドンブリをかっ食らうしかできないわけですけども、

「ボクだって男の子なんだ!」

とか6歳児みたいに心の中で叫びながらその大男の挙動を

目で捉えたりしてました。 ボクって男らしい。


「こんな大男はどんな荒々しいメニューをオーダーしちゃうんだろう、

吉野家裏メニューで熊鍋なんか頼んじゃうんじゃないだろうか」

とかありえない妄想で盛り上がっちゃってたんですが

普通に牛すき鍋定食頼んでました。 鍋まではあってた。


そんなこんなで彼に牛すき鍋定食が運ばれてきまして、

アツアツの鍋を素手で荒々しく食べちゃうんじゃないかって思って

気づかれないように注目してたんですけど、なんて言うんですか、

普通に割り箸使っちゃってるのよ。 当たり前か。


そしたら生卵を器用に溶き始めちゃって、

「オマエ、そんなやつじゃなかったじゃねぇかよ!

昔は卵なんか素手で握りつぶしてたじゃねぇか!目ェ覚ませって!」

って旧友のフリして向かいの席から全力で

ツッコミたかったんですけどまだ死にたくないのでやめておきました。


しまいにはフーフーして食べてたもんだから拍子抜けしたわ。



















予想外だ

「長い」という罪

一茶、芭蕉に片想い。  意味不明。


こんにちわ、なかやまきんに君です。

9月も半ばにさしかかり、残暑がさほど厳しくはないと感じております。

今までブログという21世紀が生んだツールを用いて初心者ながら

文章を書いてきたわけなんですけど、

ボクの文章はどうやら長いんじゃないかと思うに至りました。

つまり、文章が短ければ毎日続くはずだろと考えたわけです。

っちゅうことでこれからは短めにお送りしていこうと思います。

そもそも心情を短く表現する短歌とか俳句が生まれた日本において、

「長い」ことが良しとされないのは当然のことですね。

そう考えると若者が大人の長ったらしい説教を嫌うのもうなずけます。

しかし、最近は一部の若者が「え~マジで~、それホントウケるぅ~」

とか言っちゃってて中身がない上に長ったらしいので最悪です。

まぁ、長いものは結局受け入れにくいということで間違いなさそうです。

ご多分にもれずボクにも中学生時代がありまして、

それはもう話の長いことで有名な体育の先生がおったわけですよ。

んで、ある日、学年集会的な行事でその先生がいつものように

有り難いのか有り難くないのか到底分かり得ないお話をしてたんですけど

奇跡の天使が舞い降りたのか、風が吹いたら桶屋が儲かったのか、

10秒足らずで話が終わったことが3年間のうちで一度だけありましてね、

そのときはどこからともなく拍手が沸き起こってました。

完全に話が短かったことへの賞賛の拍手だということは明らかだったので

先生は素直には喜べないといった面持ちでしたけども、

やはり一般的には、「長」は悪、「短」は正義のようです。

最近は短さだけを前面に押し出した笑いが蔓延してきていて

それはそれで嘆かわしいのですが、「短」は正義という考え方を

戦略的に利用したひとつの例と言えるのかも知れません。

言葉を扱うというのはなんとも奥深く、難しいものですね。

ということで重複しますけれども、

短めの記事を持続的にお送りできるようがんばっていきたいと思います。



















孤独な戦いが今、始まる。

⇔DEATH NOTE

ですのうと


「もう恋なんてしないなんて言わないよじっちゃんの名にかけて」

でおなじみの管理人ですの。


前回の記事で「心を洗い直します」発言を声高におこなったんですけども、

心があまりにもガンコに汚れていたので2週間もかかってしまいました。

TOKIOがあんなにもハートを磨くっきゃないと叫んでいた理由が

ようやく理解できました、これでひとつ大人の階段のぼれました。

冷やし中華はじめました。 あ、どうもはじめまして。


結構前なんですけども映画のDEATH NOTEを観に行きましてね、

名前を書きこむだけでその人が確実に死に至るという

死神のノートを拾った少年がそのノートを使って自ら犯罪者を裁き、

突然起こったその不可解な事件を天才少年が解明していくという

どう考えてもハートフルではない映画なんですけども、

今回は前編ということでヤキモキする感じで終わったので

続きが気になっております。

原作のマンガもずっと気になっていたのですが、

なんだかんだで読む機会がなかったので

ここまで来たら読まないほうがいいのでしょうか。

その前にボクノートを探すのが先でしょうか。


まぁそんな管理人の諸事情はどうでもいいんですけど、

「DEATH NOTE」っていうのはちと響きがコワイので

ハートフルな映画にできないかという意味も込めて逆に

「⇔DEATH NOTE」っていうのが存在したらどうなるんですか的な思いを

巡らせてみたいなと思うんですけどいかがお過ごしですか。


名前を書きこむだけでその人を一時的に生き返らせることができるという

天使が落としたノートを拾った少年が歴史上の人物を生き返らせて

ホンネを聞き出しちゃおうというドッキリ企画。


















“ま、まさか! 徳川家康はホトトギスが鳴くまで待てなかった!?”

“衝撃の事実! ペリーの黒船はそんなに黒くなかった!?”

“本邦初公開! 光源氏の恋愛事情の全貌!?”


なんていう心にジ~ンとくるストーリー展開の感動巨編が完成しないな、コレ。

嗚呼、反省の日々

「一ヶ月以上更新してないだとぅ? 笑わせるなっ!」   怒りのリカちゃん来襲



本当にお久しぶりです。 そしてごめんなさい。 ちなみにまだ生きてます。


一ヶ月以上も更新してないこの現状を誰も許してくれないのは当然です。

そりゃ、コンビニ行ったらなんかうっすらクサイという仕打ちも受けますよ。

キップを壱万円札で買ったら弐千円札でごっそりおつりが出てきますよ。

UFOキャッチャーのクレーンのバネがあまりにも弱すぎますよ。

家を出たとたん晴れ渡っていた空が土砂降りの雨になりますよ。

難しそうな言葉ばっかり使ってブログ書いてんじゃねぇよって言われますよ。


そんな仕打ちじゃ足りないくらいの愚かな更新率を実現してしまいました。

ということでね、今度こそは心を入れ替えて心を洗い直して

ブログの更新に励みたい気持ちは二億四千万の瞳なのです。


「反省したら次は行動で示せ」というのが世間では常識ですので

もっとアクティブにモチヴェーションを上げてセンセーショナルな

ハリケーンを巻き起こしたいと思いマスマティック。


















コイツ、勢いだけでまた同じ過ちを犯しはしないか

ダイジョビと思うょ・・・

人間観察闘技場

えんぴっつぁん えんぴつだ、ばかやろー



「抱いてセニョリータ」というよりも管理人です。

更新頻度が格段に落ちていることには一切触れずに前へ強く進みます。


電車とか地下鉄とか多人数を一度に輸送する交通機関は

おもしろいというか興味深い人を探し出すには持ってこいの環境なわけで

満員電車なんて昔からめちゃくちゃキライで「親のカタキぃ~!」と

言わんばかりの勢いで電車という無機質な物体に怒り狂っていたんですが

人間ウォッチングの絶好の機会だと思うことによって、

その怒りをものの見事に鎮めたまふことができるようになりました。

誰かそんなボクの成長を四六時中褒めてください。


今日なんか地下鉄に乗ってて尾崎豊に負けないくらいに

大人が勝手に作り上げた不条理な社会に反抗しようとしてる

敏腕ロマンチストを見つけてしまいましてね、

「彼の反抗心は思春期の中学生にも引けをとらないぜ」

なんて勝手に反抗心を数値化してたわけなんですよ。

そんな彼は推定年齢25歳、見た目は教科書に出てくるようなアキバ系で

全身に「BADBOY」の文字が散りばめられた、

なんともアウトローなシャツを身に纏っているのです。

アキバ系でありながら「BADBOY(=不良)」を連呼するその出で立ちに

「矛盾かよ!」と

さまぁ~ずの三村マサカズ風味でツッコまずにはいられなかったんですけど、

それもまた斬新な尾崎豊活動の一環だと思って

ツッコミ欲求を胸の奥にしまい込んだ水曜の午前だったわけです。


電車には何の因果か、「行きがあれば帰りもある」という

不可思議なルールが元来備わっていますので

そのトレインマンシップにのっとって帰りも電車に乗ったんですけど

帰りは帰りで、すね毛を繁茂させたおばちゃんを見つけたもんだから驚いた。

しかし表現の自由が日本国憲法で保障されている限り、

このすね毛おばちゃんを法で裁くことは叶わないのです。

あなたのすね毛はえんぴつの濃さで例えると何Bですか?



















HB以下ならセーフだ!

罪と罰とバカ

どっ、土下座!?  ごめんなさい


最近、油断に油断を重ねてしまいこっぴどい仕打ちを受けている管理人です。

コンビニで「冷やし中華を温めますか?」とか聞かれたもんだから

これは新サービス開始なのかしらとか勘繰ってみたわけなんですけど、

結局どうも店員さんのミステイクらしかったので

からあげじゃなくてくやしさ増量中な気分になってしまいました。


そんなこんなで一ヶ月以上更新していなかったこの「おわらいバカ」ですが、

何事もなかったようにまた更新していきたいと思います。

いや、むしろ行進したいと思います。

「更新しなきゃ! いや、更新したい!」という気持ちは

日に日に強まっていたんですけどそれを阻む数々の諸要因があったもので

こんなに惨状になってしまっていました。 すみません×∞。

まぁ世の中はうまいことできていて、一ヶ月も更新できなかったツケは

それに見合った形できちんと数値として表れるもので、

どこかの企業の株価みたいにランキングは急降下、

コメント激減、梅雨の到来など挙げればキリがないわけで

自らの愚かさにただ涙を飲むしかないシビアな現実が待っているのですが

それを跳ね返さんとするがごとくココロを入れ替えて、

またガンバりたいなと思っておりますのでよろしくお願いいたします。



















なんだよ、湿っぽい弁解と世間話だけかよ。       ウゥ、ゴメンチャイ。

笑いの品格

オゥ!フゥジヤァマ~


おひさしぶりにもほどがありますよね、どうも管理人という名の愚か者です。

なかなか更新できなくて涙を流しながら今日まで生きてきました。


タイトルを見ればすぐにわかると思うんですけど、

2006年のベストセラー「国家の品格」を読んでみました。

「国家よりもまずお前の品格を何とかしてくれよセニョリータ」的な

ラヴレターが全国どころか世界中から多数寄せられそうなんですけど、

そんなことに屈することなく頑張りたいと思います。


生まれながらにして読書という知的な行動に取り掛かることを拒否し

笑いが豊富に溢れているテレビの世界に逃げ込む習性があったんですが、

最近になってようやく読書のおもしろさに開眼しはじめました。

今でこそ、このブログも書かせていただいてますけど

文章を書くのも極めて不得手でした。


学校で「読書感想文を書いてこい!」なんて言われようものなら

「私は~と思う。」 を 「私は~と思うことこの上ない。」みたいに

1マスでも多く原稿用紙が埋まるように語尾を替えることに躍起でしたし、

それ以前に本を読まずに感想文書いてましたからね。

ここまで来るとヴァカですよね。

完全に読書感想文の本質が失われてる。

言わば「無読書妄想文」。

たぶん本のストーリーに出てこないこと書いてた。


とにかく今になって読書のおもしろさとか必要性に気づいたんですよ。

「国家の品格」の著者である藤原正彦さんも人間には

情緒力(物事に対して正しい感慨を覚えることができる力)が

必要不可欠でそれを養うには読書が最善の方法だと言ってますからね。

こりゃもう必要だわ、読書。 ボクに情緒力は皆無ですからね。

野に咲く花の美しさに感動するなんてことは一度もないですからね。

美しさより食べられるかどうかで判断しますからね。

もうホントにボクはダメなやつだ。


今まで読書があまり好きになれなかったのは、

「読書は受け売りに過ぎない」という身勝手な先入観が原因だったみたいです。

しっかし、いざ読書すると心地よいほどにインスピレーションが刺激されるね。


って、もうボクの読書に対する愛情はどうでもいいですよね。

全然タイトルに関係ないじゃないか。 プンプン。

とさとう珠緒風に言っておけば許されるかな。


ということで、

ボクに対する怒りの握りこぶしはひとまず下ろしてもらって、

本論にいきたいと思います。


「国家にも品格があるようにお笑いにも品格がある」

と前々から思っていたんですが、

今回、国家の品格を読んでその考えがより強固なものになりましたの。


それはどうしてかというと、

「枯れ枝に 烏の止まりたるや 秋の暮れ」

という俳句をあるドイツ人大学生に紹介してあげたところ、

「それで続きは?」と聞き返されたというエピソードが文中にあったからです。

日本人なら「それで?」と聞き返す人は一人もいない。

日本人なら誰しもその俳句を聞いた途端、

「沈む夕日を背にして烏がポツンと枯れ枝に止まっている」

という光景をすぐに思い浮かべますよね。


日本以外の多くの国は

「古池や 蛙飛び込む 水の音」

という芭蕉の俳句を聞いて一匹じゃなくて何匹もドバドバッと

蛙が飛び込む光景を思い浮かべるらしいのです。


そこに日本人特有の感性のすばらしさがあると著者は言っています。


それを知ってボクの考え方は間違っていないと確信しました。

日本の笑いはこの世界屈指のイメージ力に拠るものでなければならないと。

そうすることで美しいお笑いの世界が実現すると。


例えば芸人さんが何らかの言葉を放ち、

その言葉を受け取った側が状況をイメージしておもしろさを感じる。

それが日本特有の笑いの在り方だと。あるべき日本の笑いだと。

これが松本人志が根付かせようとした笑いの姿だと。


外国には漫才形式のお笑いはないと聞いたことがあるのですが、

こういう理由があったからなんだと分かりました。

やはり日本は世界に名だたる品格あるお笑い国家だったのです。

かと言って、他国の笑いの在り方が間違いということではないですよ。


世界の中で日本はイメージ力が非常に高いという現実が

漫才という笑いの形式を生み、独自のエンタテインメントとして発達した。

その本来持つ強みを生かした文化・歴史がすばらしいというわけです。


この事実を考えた上で、現在のお笑いをみなさんはどう思いますか?

ボクはどうしても納得いきません。

「空前のお笑いブーム」なんて言われてますが、

どうも間違ったレールに乗っているとしか思えないのです。

つまり、日本が誇るイメージ力に拠った笑いがかなり少ないと思うのです。

「インパクトさえあればおもしろい」という考えが主体の

「迎合型お笑い」が台頭してきてしまっているのです。

「迎合型」というのはもちろん、

芸人さんが自分の世界観を曲げてお笑いを見る側が

好みそうなカタチの笑いを提供するということです。

要するに、お笑いを見る側の顔色を伺う芸人さんが多くなっているのです。

これは極めて時代錯誤です。 非常にまずい事態です。

日本独自の潜在的なお笑い文化の存続・発展が危ぶまれます。

この事態にみなさん気づいてますか?

ボクの言うことは間違ってますか?

それともボクは調子に乗りすぎですか?


















最後の質問は間違いなくイエス

おきてがみ

晩ごはんまでガマンしなさい


更新するまでもう少し待ってくれたらうれしさ募ります。

おやつは戸棚の中です。

               「みんなのおかあさん」ことK君。より

長期的展望の危惧

どかーん


ひさしぶりの出会いに乾杯!

どうも、カラダはおとな、頭脳はこども、その名も管理人です。


先日、大阪の難波に行って来ましてね、

「大阪の笑いは果たして大丈夫なのか・・・」と

笑いの本場である大阪の未来を

危惧せざるを得ない状況に遭遇してシマウマ。


地下鉄の難波駅から梅田駅に向かおうと

キップを握り締めながら改札へネコまっしぐらしてたんですけど、

その改札で若い女の子二人が大爆笑しておられる。

何のパフォーマンスをすることもなく大爆笑を獲れるという

神がかり的な能力をとうとうボクは手に入れたのかと思ったんですが

どうやら違うっぽい。 ぽぽぽいぽい。


なんかどこからともなく「ピコンピコン」とウルトラマンの

カラータイマーみたいな妙な機械音が聞こえたかと思うと、

キップが改札機に取り残されているのを発見。

その若い女の子二人はその様子を見て大爆笑しているご様子。


どうやら取り残されたキップはどちらかの女の子のものであるらしく

キップを取り忘れて後ろの人が困惑している様子に爆笑していたらしい。


そして彼女らはキップを取ってホームに向かうのだけれども、

キップの取り忘れが彼女らの笑いのツボに入ったらしく

「アヒャヒャヒャヒャ」

とアホみたいな甲高い声で爆笑を続けながら歩くもんだから

酔拳のじーさんみたいにフラフラしておられる。


後ろを歩いているボクにとって彼女らは

「今一番撃破したい人物ナンバーワン」で

DHCの宣伝みたいに全国の人に伝えたいくらいなんだけど

すばやさのステータス999のボクは揺らめく彼女らの間を縫って

そのフラフラ地獄を掻い潜ったのであります。


とにかく、特筆すべきことはそんな地獄を掻い潜ったとかいうことよりも

キップを取り忘れたというしょうもない出来事に大爆笑する女の子が

大阪に存在しているという事実ですよ。


そんな人がいるようじゃ、笑いの本場が聞いて呆れるわ。

年金対策よりも笑いの教育を盛んに推し進めていってほしいわ。

「国語・算数・理科・笑い」の詰め込み教育をお願いしたいわ。


こんな子たちが今後の日本の笑いを支えていくと思うと

将来が不安で国民年金も払う気になれないわ。














やっぱ年金対策が急務だな

1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 最初次のページへ >>